西日本豪雨について

はじめに

2018年には悲惨な災害が連続して発生しました。

7月には西日本豪雨災害、

9月には近畿地方を襲った台風21号、そして北海道で起きた大地震

私は西日本豪雨を体験しました。

竹原市の自宅には辛うじて被害はありませんでしたが、町の様子は一変してしまいました。すぐ近くの川の土手は決壊し、橋は落ち、橋桁には巨大な流木引っかかっていました。道路も土砂崩れで寸断され、町の外に出ることもできませんでした。

そのため、物流は止まり、コンビニやスーパーの棚がガラガラになっていました。ガソリンスタンドも再開するまで数日はかかったと思います。床下、床上浸水多数、土砂崩れに巻き込まれて亡くなった方もおり、そのときはこんなことを記事に残すなんて被災者の方に失礼だと思い書く気にはなれませんでした。

ですが、時間が経ち、少しずつ生活も元通りになっていくにつれてだんだん災害の記憶が薄れていっているような気がしてきました。その上、連続する大災害、世間の話題も西日本豪雨の事にはあまり触れなくなってきたような気がします。

ですが、まだ何も変わっていないのです。主要な道路がやっと開通して、復興はやっと始まったばかりです。なので書きます。忘れてはいけないことや忘れないでほしいことを書き残しておきたいと思うので。

被災地を訪れて・1

豪雨災害から数日してやっとガソリンが給油出来るようになった頃だと思います。竹原市の馴染みのお客さんから電話があり、土砂崩れなどを直すのに鍬を使っていたら壊れたので直して欲しいとの事でした。急を要する事なのでその日のうちに伺いました。

そのお宅は山あいの集落の一番上にあります。なのでそのお宅に行くには沢に面し、切り立った細い道路しかありません。今回の災害でその細い道が通れなくなったらしく、ふもとまで鍬を持って降りて頂きました。事態が事態なので持って帰って直せるものだけすぐに直して、また、そのお宅に持って行きました。わざわざ降りてきて貰うのは気の毒なので車をふもとに置き、10分程の山道を鍬を担いで登って行くことにしました。

ふもとの景色はいつもと変わらないのですが、登って行き、上に行くににつれてだんだんと土砂崩れが目立つようになってきました。そして、家に続く一本道の途中の小さな橋が半分崩れており自動車が通れなくなっていました。

山からどんどん雨水が流れ出しているので足下に気を付けて残った橋を渡りまた登っていきました。雨がやんで数日経つというのに長靴がいるくらい山道には水が流れています。そして、そのお宅が見えてきました。

少し離れた裏山が大きく崩れ、家の前の道を何本もの流木が塞いで通れなくなっていました。家の下には畑があり、石垣が組んであったはずなのですが、石垣が崩れ、畑を埋めてしまっていました。裏山の土砂崩れよって家の裏まで土砂が押し寄せていました。そのため、畑だった場所を登って庭に入り玄関に鍬を置いて帰りました。

幸いにも家族の方は皆避難していたため無事だったそうです。

被災地を訪れて・2

7月も終わりに近づいた頃、呉市のやはり馴染みのお客さんからお電話があり、やっと電話が繋がるようになったので電話した、鍬が必要なので持ってきて欲しいということでした。

そのお客さんのお宅には6月末に伺って修理をするために鍬を預かっていたのですが、呉方面は被害が多く、道路もまだ復旧していなかったので修理が終わり、一ヶ月近く経っても持って行けずにいました。ですが、お客さんが言うには身内だと言えば通行止めの箇所も通してくれるから大丈夫との事なので電話を受けてすぐに出発しました。

道中、安浦町の駅前を通りました。道路はすごい砂埃で一面真っ白で、そこはほとんどの家が床上浸水していたため皆、家の中の物を外に出して炎天下の中掃除をされていました。皆疲れ切っているように見えました。

お客さんの家は山の頂上付近の集落にあるので少しずつ登りになっていきます。そして登って行くほどに土砂崩れがひどくなり最低限通れるくらいに土砂をよけただけの道路を通ってお宅まで走りました。通行止めも道中3カ所ありましたが、日曜日のせいか警備員はおらずそのまま抜けさせてもらいました。

その集落は毎年のように伺っており今年も6月末に来ていたのですが、山を越えてその集落に着いた時、自分の知っている景色とは全く変わっていました。

一ヶ月前に伺ったお宅が二軒も無くなっており、一軒は半分ほど土砂崩れにのまれ、もう一軒は最初からそこには何もなかったかのように土の山になっていました。

恐ろしい光景でした。そのなかでも身内の方や作業員の方々が汗だくになって作業をされていました。

それから電話を頂いた方のお宅に伺うと、前に来た時と同じようにそこにあったので少し安心しました。ご主人はいつも明るい方でこんな状況でも笑顔で迎えてくれました。やっと自宅に戻って来れたそうで親類の方々と忙しそうに復興作業をされていました。なので鍬を渡し帰ろうとすると、作業中に壊れたらしく、爪の折れた鍬をもう一丁預かって帰りました。急がないので一ヶ月くらい後でいいとの事でした。

それから一ヶ月ほどして8月も終わりに近づいた頃、またそのお宅に修理した鍬を持って伺いました。前回より道路はきれいになっており、通行止めも無くなっていました。

集落に入ると作業員の数は減っていましたが、その分若いボランティアの方が炎天下の中、がんばっておられました。ご主人も奥さんもお元気そうで、いろいろ貴重なお話を聞かせていただきました。

災害の夜は避難せずに自宅の2階で寝ていたそうです。どうやら寝室の裏山は岩山なので安心していたらしく、朝起きたらの家の前が水で溢れていたので外に出られなかったそうです。山が崩れる瞬間も見たそうで、崩れる前には何か変な臭いがして、50メートルほどが凄い勢いで崩れ落ちたそうです。

電気も水も止まってしまい道路も塞がれ、食べる物が無くなったので近所の公民館に集落に残っていたみんなが米や水を持ち寄り、ガスで米を炊いておにぎりを作ったそうです。

丸二日半ほどしてやっと救助が来たらしく、自衛隊のヘリで脱出したそうです。そして、テレビにも何回も出たと冗談っぽく仰っていましたが、内容が内容だけに笑う事はできませんでした。そして、お宅をあとにするとき周りの景色を見ました。1ヶ月前とあまり変化はなく、復興には相当の時間がかかる事は容易にみてとれました。

最後に

風化させてはいけないという思いだけで書いた備忘録的な物ですので読みづらくてすいません。覚え書きですが、最後まで読んでくれてありがとうございました。

平成30年 9月記