鍛冶屋のトワイライトシンドローム

あわてんぼうの鍛冶屋

その日は仕事の段取りが悪く、かなり時間が押し気味だったので慌てて配達に出かけてしまいました。目的の村落にたどり着いたのはもう夕方近くでした。さて、がんばって営業するぞ!とカバンを開けてゴソゴソと探ると大事な物がありません。お客さんから鍬を預かった時に鍬に名前や細かな注文を書いたりするのですが、その為の油性マジックを忘れて来てしまいました。これないと結構まずいです。というか必需品です。すぐに買いにいかないといけません。

山間の田んぼ沿いの道路

しかし運悪くこの地域はコンビニ不毛地帯、半径10キロ以内に大手コンビニチェーンは存在しません。田園地帯を走りながら僅かな記憶を頼りにお店を探します。確かこの辺りにあったはず・・・

そのとき道路沿いにポツンと建った個人商店らしきものを見つけました。建物の側面には塗装のはげかかった大きな立て看板がありオロナミンCを持った大村崑がにっこり笑っています。マジックがあるかないか絶妙なところですが、もうここしか思い当たるところがないので立ち寄ることにしました。

大村崑の看板

鍛冶屋、昭和に迷い込む

入り口には店名らしき看板がありますが文字が薄くなってもはや読み取る事はできません。中に入ると電気もついておらずちょっと薄暗い感じです。広い土間に商品棚がいくつかあり、その奥には店主の居住スペースになっているようで一段高いところに襖でしきられた部屋があります。そこから張り出すように少し板の間があり、古い小さなレジと引き出しのついた戸棚が置いてあります。まさに昭和の商店といった造りです。

昔はこのような商店が地域の生活を支えていました。私が小さい頃はよく母の配達について行き、こういったお店でおやつを買って貰ったものです。それから四半世紀以上たった今、このようなお店はほとんど姿を消しましたがここにはまだ残っていたようです。

そういえばちょっと小腹がすいていたので何かないものかと商品棚に目をやると、日本茶によく合いそうな饅頭など和菓子がいくつか、パンはアンコとクリームの二択、そうかと思えばやたらと品揃えのいいのど飴、若輩者の私にとってなかなか厳しい選択です。他の棚には醤油や味噌、洗剤などの生活必需品がぽつぽつと並んでおり、選ばなければ生活できるくらいの品揃えはあるようです。むぅぅぅと唸っていると奥から『いらっしゃい~』と声が聞こえます。

ゆっくりと襖が開き、やってきたのは小柄で白髪そして少し背中の曲がったお婆さんでした。今にも「ひゃっひゃっひゃっ」と笑い出しそうです。レトロな風景画を補完するかのようにレジの横に座ったお婆さんに「すいません、油性マジックありませんか?」と尋ねると細い目を一層細くして『あるよ~、ひゃっひゃっひゃっ(勝手なイメージ)』と隅の戸棚をゴソゴソと探しています。あるのか!と逆に驚いてしまいましたが、これは嬉しい誤算です。

しかし、出てきたのはなんと極太マジック・・・。それ、先が割り箸くらい太いヤツじゃないですか!・・・「もうちょっと細いのないですか?」するとまた戸棚の中を物色して出てきたのがなんと、色違いの極太マジック、しかも3色!・・・いや、かなり予想の斜め上を行ってますが!・・・分かりました私の負けです。この状況で贅沢を言えるわけもなく、有り難く極太マジックを頂いてその店を後にしました。

外に出ると太陽は大きく西の空に傾いています。ものの数分の出来事でしたが、長い時間旅行をしたような気分でした。子供の頃に通った近所の駄菓子屋、文房具屋、本屋、今ではもうありませんが、それを思い出させてくれるようなお店でした。

車に乗り込み走り出します。バックミラーに写るそのお店はだんだん小さくなっていきます。そのとき、幼い自分が母と一緒にお店に入っていくのが見えたような気がしました。 (完)